ジュンパ・ラヒリ

今月のブッククラブの課題である、カポーティ『冷血』*1 は、どうしても今月中には読了できそうにない。学校の宿題とか、締め切りのある仕事というわけじゃなし、あまり無理をしても仕方がない。せっかくの名作も、義務で仕方なく読んだのでは、辛いばかりで感動もしない。そんな状況で、好きなカポーティを嫌いになってしまったりしても馬鹿らしいから、『冷血』はひとまず置いておこう。


というわけで、ジュンパ・ラヒリ『その名にちなんで』*2 を読み始めた。図書館から借りているので、もうすぐ返却期限が来てしまう。これもまた義務にかられてというような状況ではあるのだが、カポーティよりは気楽に読めるし、どんどん読めるものから進めていかないと、楽しみにしているクリスマスの本が読めなくなってしまう。


今日から読み始めたので、まだ半分にも達していないのだが、例によって不思議な感覚にとらわれている。インドから移民した人たちの話だが、前作の短編集 『停電の夜に』 でも感じた奇妙な感覚が、いまだに抜けない。アメリカに渡って、アメリカ式の家に住み、アメリカ人と同じように生活しているのだが、その中で相変わらずサリーを着ていたり、毎日インド料理を食べたりしているというのが、なんとも不思議なのだ。というか、その民族性に、こちらが慣れないのだ。


そこには、宗教の違いとか、文化の違いとか、いわずもがなの事実があると思うけれど、これはアメリカの小説なのだと思いながらも、でも違う。なんとも奇妙な感じがして仕方がない。アメリカにおける、ほかの民族には感じられない独特の感覚がある。


インドのサリー姿の女性は、痩せていようが太っていようが、皆エキゾチックできれいだなと思うのだが、先日1台の車に5、6人がぎゅうづめになって乗っている光景を見て、なんて濃い空間なんだろうと思った。一人一人は、サリーもきれいだし、彫りの深い顔が美しいのだが、集団になると、まるでそこがブラックホールのように密度が濃くなっている感じがする。


うまく言えないのだが、インド系の小説(ほとんど読んだことがないので、ジュンパ・ラヒリの小説と言ったほうがいいかも)には、そういった密度の濃さを感じる。アメリカで生まれた子どもたちは、アメリカ式の食事をしたりしていて、キッチンにはアメリカのブランドの食品が並んでもいるのだが、そこに、どうやっても消せないカレーやスパイス、タマネギや唐辛子、マスタードオイルの匂いが存在する。


日本人がアメリカで暮らしても、やはり日本食は食べるだろう。たまにはキモノも着るかもしれない。でも、インドの人のように、かたくなに母国の習慣を守るということはないだろうと思う。「郷に入れば郷に従え」というようなことわざは、インドにはないのかもしれない。


ジュンパ・ラヒリは、奇想天外なことが書いてあるわけでもないのに、淀みのない文章で一気に読ませる、とても上手い小説家だと思う。日本語版の読みやすさは、翻訳家の力によるところも大きいだろうとは思うが、一つのパラグラフが長い割には、途中でうんざりすることもなく、流れるように進んでいく。およそ女性作家らしからぬ作家(これは褒め言葉だ)だと思う。


ただ、当たり前かもしれないが、どうしてもインドの匂いがつきまとう。だからこそジュンパ・ラヒリなのだと言えるのだろうが、私はその部分に、いまだ奇妙な感覚を消せず、なにやら落ち着かない気分になる。