「デイジー・ミラー」

今日読み終えたクリスマス本は、ふうん・・・という感じで、特に書くべき感想もない。これはひどい!とか面白くない!と言えるほうが、まだましかな?と。でもあえて言えば、2作目の「The Christmas Miracle」のほうが、いくらかましだろう。


というわけで、周囲の何人かには、わけのわからない小説と言われているヘンリー・ジェイムズの小説のほうにとりかかっているのだけれど、「ねじの回転」の前に「デイジー・ミラー」を読んだのだが、なんとなく、このデイジーという女性が、自分のことのように思えた。


というのも、1800年代の封建的なヨーロッパの上流社会において、アメリカの富豪の娘であるデイジーは、あまりにも奔放すぎるアウトローなのだ。「上流社会の娘が、あんなことをして!」と、周囲の紳士、淑女たちから非難ごうごうの娘なのだ。かといって、実際にふしだらであったりするわけではなく、本人はいたって天真爛漫でしかないのだと思うのだけれど。


で、私は上流でもないし、富豪でもないが、周囲から見れば、おそらくアウトローに見えるのだろうと思う。「まあ!主婦がお酒を飲みに行ったりして・・・」とか、「ご主人以外に男友達がいるなんて・・・」と思われているに違いない。


しかしデイジーと一緒で、やりたいことをやっているにすぎない。主婦がお酒を飲んではいけないとは思っていないし、たまたま友だちの性別が男だったりするだけで、それ以上の意味もないし、自分の人生を楽しく生きて何が悪い?とも思う。デイジー同様、世間の目など、あまり気にしていないから。


というわけで、この「デイジー・ミラー」は、当時としてはかなり奔放な女性についての描写であっただろうから、非常に話題にもなったのだろうが、いつの時代にも、こんなことはよくあることと思える。こんな風に自分の意志で自由に生きる女性には共感を覚える。


ただデイジーが、あまりにあっけなく死んだのと、その死についての言及があまりにそっけないのとに唖然とした。この小説の主人公の男は、デイジーのことが好きだったのに、世間の目や厳格な伯母の目を気にして、なにやかやといいわけしながら(例えば「デイジーは下品な娘なのだ」とか)、デイジーの死に、自分は何の関係もありませんよ的なそっけない態度を取るのがいやらしい。ほぼ毎日のように、デイジーのいるホテルに通い詰めていたというのに。


この主人公に比べれば、デイジーと付き合っていたイタリア男のほうが、ずっと正直で好感が持てる。自分はデイジーとは身分が違うけれど、デイジーが望むことは何でもしてあげたい、一緒にいれるだけで幸せなのだと言える、この男のほうが、体裁ばかり気にしている主人公よりも数倍いい。


この時代、女性は何かというと気を失って、すぐに気付け薬の瓶を嗅ぐというようなことをしていたわけだから、デイジーが主人公の男を好きだったとすれば、男に拒絶されたショックで死んだとしても不思議はない。自由奔放な娘でも、心は非常に傷つきやすかったとは言えないだろうか?


ヘンリー・ジェイムズは、デイジーという女性を描いたつもりだったのだろうが、私は体裁と世間体を気にする優柔不断男の典型を見せられているような気がした。時代背景を考慮しても、こんな男は嫌だ。だいたい、いい年をした大人の男が、伯母様のお供をして旅行をしているなんて、気持ちが悪い。