ケープ・ブレトン島のロブスター

図書館で先に借りた本はひとまず置いておき、アリステア・マクラウド『灰色の輝ける贈り物』*1 を読み始めた。舞台はマクラウドが育った、カナダの ケープ・ブレトン島 で、「赤毛のアン」で有名なプリンス・エドワード島の東隣である。そこは、スコットランドよりもスコットランドらしいといわれている島だとか。しかし読んでいると、自然がとても厳しい土地のようだ。北方であるのはわかっているが、やはり南の島のように、のんびりと気楽には生きられない。


この本は短編集だが、その冒頭の作品「船」(The Boat 1968)を読んでいて、自分のお気楽さに唖然とした。

「ケープ・ブレトンの沖合いは、今でも豊かなロブスターの漁場で、五月から七月にかけてのこの季節、捕れたロブスターは氷の箱に詰められ、夜となく昼となく、道路を突っ走る大型トラックで、ニューグラスゴーアマースト、セントジョン、そしてパンゴア、ポートランドを通って、ボストンへ運ばれ、ここで生きたまま、最後のわが家である煮立った鍋のなかに放り込まれる」


この文章自体は何のことはない描写だと思うが、私はボストンで、このロブスターを食べている。何の考えもなく、大喜びで。



ボストンで食べたクラムチャウダーとロブスターサンド


この文章の前後には、ケープ・ブレトンで必死に生きる漁師の姿が描かれており、最後には主人公の父親が漁の最中に海に落ちて死ぬという結末となっている。まさに、情け容赦ない自然の過酷さが描かれているのだ。


ケープ・ブレトンだけではなく、自然に関わる仕事をする人たちは、世界中どこでも死と隣り合わせで生きているのだと思うが、この話のこのロブスターは、ボストンのあのロブスターだったのか!と思うと、もっと有難く頂戴しなければいけなかったんではないかと。


普段、そこまで考えて物を食べてはいないのだが、マクラウドは残酷にも、自然の過酷さをあますところなく描いており、その仕事に携わる人々の苦労がひたひたと伝わってくるために、読んでいる側は、身につまされる思いがするのである。


これはたまたま、つい最近食べたロブスターの産地の話であったため、特にそう感じたのかもしれないが、この作品だけでなく、読み始める前に抱いていたマクラウドのイメージとは作風がずいぶん違っていた。人間的なものは超越しているような作家なのかと勝手に思っていたのだが、非常に人間的だ。


まだ3篇しか読んでいないので言い切ることは出来ないが、「短編の名手」と言われてはいるものの、個人的には、この人は長編のほうがずっといいのではないだろうか?という気がしている。図書館に長編も予約してあるので、それを読んでから、再び比較してみたいと思う。